銭湯文化が育んだ風呂敷
現在でも使用される風呂敷は、江戸時代の流行りの銭湯の発達と深く関わっていました。
主に自分の浴衣や垢すりや軽石などの入浴グッズを包むのに使われており、
それらの様子は江戸時代の絵巻や井原西鶴の作品にも描かれています。
また多くの方が銭湯に通うようになると家紋や屋号(苗字の代わりの呼び名)が使われるようになりました。
これは自分と他人の物を区別するためのもので、風呂敷の利用者の多さをうかがい知ることができます。
風呂敷と呼ばれる以前には、平包みや衣包と呼ばれており、正倉院の収蔵物にも記録されています。
当時は舞楽の衣装を包む道具として使用されたと考えられており、内容物を固定する紐もありました。
名の由来としては室町時代になると大名らが風呂に入る際に利用したという説と、
茶の湯で湯を沸かす風炉に由来するという説が知られています。
また平包みは、包み方の方法として残されました。
駿府徳川家形見分帳にも記録があります。
天下統一を果たした徳川家康の形見分けを記録した文書に記載されており、
当時の武士階級の間では知られた存在であったと考えられます。
家康は熱海温泉を好んでいたとされるため、湯治に訪れる際には
風呂敷に浴衣などを包んでいたのかもしれません。
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商業の発達も普及に貢献
銭湯が流行った江戸だけでなく、天下の台所と呼ばれる大阪や京都など
商業が発達した町でも風呂敷は使われていました。
主に商品などを入れて持ち歩いたと考えられており、現在で言うところの営業に大活躍したことでしょう。
商品の大小に関係なく包み込めるだけでなく、売り切ってしまえば風呂敷を畳んで
懐にしまうだけという利便性が人気を集めました。
また家紋や屋号を染めることで独自性を表現できるため、宣伝にも一役買ったと考えられます。
江戸時代の風呂敷の種類には一幅から五幅がありました。
一幅は一辺が約34cmあり小物を包むために利用されており、小物を包む際に利用されています。
また五幅になると一辺が約170cmに達する大風呂敷もありました。
これは大火に見舞われることの多かった江戸において欠かせないものとなっており、
万が一の火事が起きた際に布団の上に生活用品や貴重品を載せ、布団ごと包んで避難した伝えられています。
現在では当時よりもサイズの種類が多くなっており、中幅(約45cm)や最も一般的な二幅(約60cm)、
最大の七幅(約238cm)まで10種類があり、目的に応じて利用されます。
贈り物を包むだけでなく、レジ袋の代わりやテーブルクロス、こたつ掛けや布団の上掛けなど用途も多彩です。